肝炎ウイルスマーカーの歴史
〜第2回〜


 今回はB型肝炎ウイルスの発見までの状況を解説します。

第2章 B型肝炎ウイルス(HBV)の発見
 黄疸の記録

 もちろん黄疸イコール肝炎ではありませんが、肝炎の一症状としての黄疸は大昔から大変目立ったと考えられます。特に肌の色の白い人では黄色くなることが目立ち、食欲もなくなり、中には死ぬような人もいて明らかに病気と認識されたはずです。このため医学の発達と共に黄疸の記録が残り、医学の祖といわれる古代ギリシャのヒポクラテスも、黄疸を病気として認識していたようです。その後、黄疸の大きな流行の最初の記録は一八世紀といわれています。また、各国で戦争のある度に軍隊内で黄疸が流行することが報告されました。しかし、光学顕微鏡が発達して各種の細菌が発見されても、肝炎の原因は長らく特定されませんでした。

 二種類の肝炎
 第二次世界大戦の戦中、戦後に、予防接種を契機に肝炎の発症を見た症例や、飲料水や食物から集団発生した黄疸の症例の観察などから、肝炎には二種類あることが分かりました。一九四七年以来、糞便に汚染された水や食物でうつるタイプの肝炎をA型、血液でうつるタイプの肝炎をB型と称するようになりました。ここで誤解していただいて困るのは、名称が先に決まっても、まだウイルスの実態は発見されていないことです。

 日本の状況

 明治維新以後に日本にも産業革命が起こり、都市部に人が集まるようになりました。人が集まったのは、もちろん当時の農村にいるよりも、収入をよくして生活を向上させることを夢見てのことですが、そういった人々をいろいろな感染症が襲うことになりました。その代表選手はもちろん結核でしたが、肝炎も所々流行が目立つようになりました。但し、この流行した黄疸は、今でいうA型肝炎でした。血液でうつる肝炎は戦後輸血療法が一般的になってから認識され出しました。

 B型肝炎に辿り着く
 一九四七年以来世界中の多くの研究者が肝炎ウイルスの同定に躍起になりましたが、うまくいきませんでした。一九六〇年頃、米国のブラムバーグは、人間の病気のかかりやすさと遺伝的な違いの研究をすすめていました。特に血液中のタンパク質の違いから病気への罹りやすさが異なるのではないかと考え、輸血経験の多い患者(血友病や白血病の患者)の血清と世界各地の人々の血清とを反応させていました。その結果、一九六三年に、ニューヨークの血友病患者と、地理的に大きく隔たったオーストラリアのアボリジニー(オーストラリアの原住民)の血清で珍しい反応を見いだし、その原因をアボリジニーの母国の名前からオーストラリア抗原と名付けました。当初、ブラムバーグ自身は肝炎との関連よりも白血病との関連を想定していたようです。一九六八年、我が国の大河内一雄らの研究で、オーストラリア抗原陽性の血液を輸血すると、陰性の血液を輸血した場合よりも肝炎を起こしやすいことが判明しました。一九七〇年にはとうとうウイルス粒子が電子顕微鏡で捕らえられました。その後も様々な研究の積み重ねでオーストラリア抗原が血液で移る肝炎を引き起こすウイルスの一部であると認識されました。このオーストラリア抗原が、現在正式にはHBs抗原と呼ばれているものになります。

 血液スクリーニング
 日本赤十字社では一九七一年から、HBs抗原陽性の血液を輸血から除くようになりました。その後、一九八六年からはより工夫したスクリーニングが行われ、事実上輸血後肝炎からB型肝炎は消滅しました。しかしここで大きな問題が残りました。血液でうつるタイプの肝炎であるB型肝炎を除いても輸血後肝炎が無くならなかったのでした。

 次回は、この残された輸血後肝炎の問題からC型肝炎の発見に至る歴史と、それに先だって発見されたA型肝炎の歴史を解説する予定です。

(小島 眞樹)